昭和44年11月20日 朝の御理解
入力者=末永静行
御理解第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を 頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば 、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯 というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる、確かにそういう道理だなと思いますですね、かというてそういう中に、やはり信心深いという人達がありますね、何々様のお参りをする、それに純粋な気持ちで信心をされる方があります。教祖の神様でも、やはり、神信心が好きじゃというては、どこのなんなん様、どこの何々というお寺というように、ずいぶんあっちこっちお参りなっておられます。
ですから、それが、そういう信心ではおかげは受けられんと、という事はないですけれども、本当にそれは信心によって力を受けようと、信心によってお徳を受けようと、ということになりますと、私は、それではやはりおかげが受けられない。
昨夜、合楽会でございました、もう、いつも12時まで打ち切るんですけれど、もう、普通お参りされませんから、帰る時だけなっても、もうゆっくりしてお話を頂かにゃんというような意気込みですから、もう次から次ぎと信心話になって、とうとう1時過ぎまでした。
まあ、なかなかよい話が出たんですけれども、やっぱりその話が出た、あそこのなんなん様に頼み、ここのなんなん様にあっちこっち参ると、その、仏様やら神様やらが喧嘩しなさる、(笑い)、あげなん所に参ってからお願いしてからあそこさんいきよるけんで、例えば病気なら病気でも向こうは直してやったっちゃ、こっちが邪魔してからようみてやらんというように、その、仏様達、神様達がその喧嘩をしなさるちいう話ですが、そげんなんこともあるでしょうかちいうてからね、しかしそれはやっぱあるかも知れませんというてから話した事です。ね。
そもそも神様同士が喧嘩なさるといったような事はあるまいけれども、やはり、教祖がこういう、一つのこと訳、ね、道理をもって説いておられますように、ね、やはり、大工でも家を建てるでも棟梁がなからなければならないように、何人も頼んだからおかげを受けられるという事でもない。
ところが、信心によって力を頂くという事はどういうことかというと、どういう場合でもそれをおかげと頂けれる力、例えてお話を頂いておりますと、例えば、ならここでお話を頂いておりますと、いろいろ分からせて頂きますから、成る程、すべてがおかげである、神愛であると分かる訳です、ね、繰り返し繰り返し頂いておりますと、確かに神愛という事は分かるのですけれども、ね、それをなら、本当に神愛として受けるという事は力なしには受けられんのです、やっぱり、難儀な事は難儀な事と、ね、困った事は困った事しか受けられん、神愛と分かっておる、本当に分かったらおかげと思えれる、だーどうしましょうか困った事が起こりましたというてもう、それはおかげとこう、おかげですよといえ、また思えれるという事はやはり力なんです、ね。
そういう、力を受けるという事は、ね、やはり、しっかり信心の稽古が出けとらんとおかげになりません、で、私は同時に思います事は、そういう、力を受けて、またより力を受けて限りなく力を受けていくということがです、例えばこうやって、日頃信心の稽古を一生懸命させて頂いて、物の道理というものが分かる、もう噛んで含めるようにその道理を解き明かしておったら、それからそういうもんだと分かるんだけれど、実際、なるべくつけ本番になった時にです、それをおかげとして受きらなかったり、神愛として受けきらなかったらですね、せっかくのおかげのチャンスと言うか、力を受けるチャンスを逃がしてしまうようなものだ、やはり、稽古しとかなきゃならん。ね。それには、やはりですね、草木でも芯と言うたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる、ね。
本当に私共が一心を出す、一心をたつるという事は、この神様のおかげを受けなければ立ち行かんと言う一心、ね、この一心を私は出さなければ稽古は稽古にならないと、ね、これでいかん時にはこの手でいこうと、あれでいかん時はこれでいこうといったようなこと、人間の本当の幸せはこの神様のおかげを頂かなければ人間の幸せは頂けないのだ、ありえないのだと、そこん所を私は一心に思い込ませて頂く信心をしなければいけない。ね。そこから、私はおかげが受けられるというか、そこから本当の信心の稽古ができるとこう思うのです。
此の方の道は喜びで開けたみただから、喜びでは苦労はさせんと言うその道理を聞かせてもらう、成る程、喜び、喜びの種を巻きゃ喜びの芽が出るだろう、花も咲くだろうと、そう言う道理を聞かせてもらう、分からせてもらってもです、いよいよの時にそれを喜べなかったら同じ事です、ね、これを喜んで受けるという事が信心だし、その喜びを受けなければ、ね、例えて言うと、腹を立てたり不足を言うたりしちゃおかげは受けられん、腹を立てよると、もういつも腹を立てんならん事が起きてくるし、不足をいいよると、いつも不足を言わなければならない事が起きてくるし、その事の道理を分からせて頂いてもです、ね、分かっちゃおるけれども腹が立つ、分かっちゃおるけれども不足をいわなければおられんし、口を開くと、もう、不足をいうておると言うような事でつまらん、それはどうしてそういう事になるかというと、一心を立てていないからだと思う。ね。
その一心というのはどういう一心かというと、ね、この神様のおかげを頂かなければ、ね、立ち行かんという一心、その一心の思い込みを作っていなからだと私は思います。まだ、心のどこかになんなん様、なんなん様といったような事はないに致しましても、まだ自分の力でやれるといったようなものがあるからじゃないかとこう思います。この神様のおかげを頂かなければというものが皮肉になってくる、薄くなってくる、ね。
昨日の話の夕べでました中に、、あれ何の事からだったでしょうか、その話がでたのが、昨日の朝、ある方がここでお届けをされる、お知らせを頂かせてもらった、家族の方に病人がある、その方の事を願わせてもらいよったら、忌中と頂かれた、ね、死んだ時に、ね、忌中というて表に張るでしょう、もう、それで気持ちが悪うしてたまらんとこういうのである、これはもう難しいだろうかとこう、ね、それで、私はその方に申しました、という話をした。
もう、十何年、十七、八年も前だったでしょうか、まだ、あの、今の久富建設の正義さんが土居の方に兄さんと一緒になっておる時分でした。非常に体が弱くて、もう、難しかろうと、まあ、状態に落ちたことがあったんです。その時に、願う通りで正義先生ここんところへ時計のお供えがあっておりました、ね、、あれは正義さんがお供えしておりましたでしたが、今事務所で使っております窓に、あの時計に真ん中にですね、それこそ、忌中と書いて張ってある、時計やらもう、何時何分にきちっと止まっておる、ね、そういうお知らせを頂きましたから、私は正義さんに申しました、ね、こういう難しい事だから、ね、神様( ? )、三度もありゃ助けてやると仰るもんだから、やっぱり、一つおすがりをして、おかげを頂かにゃいけんがです、それには、やはり、一つの引当がいる、それは、いわゆる、一心を立てなければいけん、ね、その事を私、私自身の毎日の祈りからお願いさせてもらいよりましたら、②●信士とこう、信心の信ですよね、それに、「し」は武士の「士」です、あれは、あの、なになに信士、御位牌さんに書く時に何々信士と書くでしょう、もう、いよいよいけない、またお願いさせてもいよったら紳士とまた頂いた、それは、この、例えば、英国の英国、紳士の国だというように申します、あの紳士です、ね、次に、神仕と、神に仕えると、「し」はこの「仕」ですね、あの、人偏にこう「仕」、はぁー、この人が、いわゆる、神仕の信心をすればですね、信仕から神仕に移っていく事が出来るなあと私は思いましたからその事を伝えさせて頂いた。ね。おかげで時計も止まらなかったし、忌中を張らんで済むようなおかげにもなって、ね、ですから、この人は合楽の信者の中でも、やはり、神仕の部類でしょうね、間違いがない人間が、いわゆる、きちっとした信心が出来る、日参りはお参りが出来ないけれども、そのけじめケジメをきちっと付けていくという信者、菊栄会の会長として、やっぱり、その、立派な会長が勤まっておる、だいたい、こう言う人達は甘木流あたりの信心だったら、もうきっと、金光様の先生になされたんじゃろうと思います、( ? )の神仕ですよ、ね。
甘木の初代は、もう、いわゆる、医者が見放したといって病人はお取次なさる時には、どうでも助けてください、貴方の直接の御用のできる氏子に致しますからというような事を条件に願われたらしいですね。ない命だと、だから、後の命は私に下さいと、その代わり、残った命で、いわゆる、金光様の先生になしますといったような、だから、非常に、そう言う事で金光様の先生になられたお弟子さんがたくさん甘木にあった訳です、ね、当然力がないからそこまでは出来ません、言いも出来ませんし出来ませんから、話はしました、こう頂いた、だから、せめてこの真ん中のきちっとした信心だけはしていかにゃいけんと、まあ、その事を一心に思い、一心に、また現在もその事を考えておくでしょうけれどもです、その一心がでけた時におかげが立ち始める、おかげを受ける、ね、神様のおかげを頂かなければでけん、それには、私はきちっとした信心を致しますという一心を立てたからすぐにおかげがあっただけ、ね、私共例えば、おかげを願うというてもですね、神様の願いに沿うて、いつも言うことと申しますが、ね、おかげを受けてその後がしだごだになったり、いいかげんになったり致します、そここん所が見極めがつかないところにすぐにはおかげにならんのです、ね。
チャンスのある方が、こん所を私が改まるとおかげを頂くことが分かるけれども、神様にその約束はしきらんっち、というぐらいな気持ちで願っておられる、ね、おかげ受けたあかつきには、ね、必ず神仕としてのおかげを頂きますというその一心を出す、しかもそれを求めて神様が下さった時にすぐにおかげが受けられるという事になるです、いわゆる、その時に正義さんが一心に思った事は、ね、神様が、あーこの男なら間違いの無いと思いなさったでしょう、ね、なら、もう十七、八年前になりますけれども、それ以来、間違う事の無い、ね、それこそ、きちっとした信心を、皆さんのご承知の通りの信心が出来ます、ね、だから、私は必ず月次祭の時に御結界奉仕をさせますのは、まあ、せめてもの神様への奉仕をね、させなきゃいけんと思うから私は必ず文男さんがたもおられますけれども、正義さんをよってと私は御結界の奉仕をさせます、奉仕を、ね、日頃は、まあ、大した信心はでけんけれども、けれども、紳士的な信心はでけております、人間の紳士的なものを持っております。
昨日もその話がなるのですけれども、はぁーあっちはなかなかどうして人物がでけちゃる、間違いがない、あの人がしよる事は間違いがないというように人は評判しておりますちいうて、土居での方がいいよるというて、話を昨日聞かせて頂きましたが、ね、そういう信心を頂いておりますから、ね、信心はどこにでもきちっとして現されておる訳です、いわゆる、紳士的な信心がでけておる訳です、それを、そういう信心をです、一心を定めて、ね、一つの信心の節度というものを持っておる。ね。
その時分に、私にお取次を頂いてお願いをしておる事の中に、これだけは、いわゆる、きちっとした紳士としての信心を致しますという一つのことにですね、私はですね、もう、絶対女には失敗をしない事を神様に誓いますち言うとるです、あーいう建築業なんかをする、もういつも飲み会がありましてから、本当に手掛け足がけもっておる人ははザマというのか、もうほとんど持たんものは馬鹿んごと言われる、今夜泊まっていかなければ義理が悪いということもある、けれどもです、私は、私もそれを信じておりますが、正義さん、これだけには絶対、自分でも間違いのない、いわゆる、紳士的な生き方でおかげを受けておる、男だという風に私は思います。ね、それは、やはり神様に紳士を神様に仕っておる、仕っておるからです、ね、御位牌さんに書く、何々紳士にならなければならないほどしの時にです、おかげを受けておるから私が何年、何十年後になりましても、こう言うことによって失敗をするようなことはいたしませんと言う紳士的な信心がそこにきちっとしてでけておる、それは、本当に毅然としてでけておるです、ね、農業所との付き合いの上においても、なら信者の私達が、その正義さんを評して言うのも夕べ聞かせて頂きましたようなことはいつも聞く事です、あっちは間違いがないと、あの人は人物がしっかりしちゃると、ね、紳士的な信心をそこに発心した、そこに一心を立てたからすぐにおかげを受けたんです、ね。
腹苦しい時の、まあ、神頼みと申しますから、ね、もう、そん時はそれを思うておるけれどもですたい、いわゆる、けれども、ただ、本当に神様をだますような一心、吾どのじゃないですけれども、家内が難産だと、親先生一生懸命神様拝んだ、ね、どうぞ安産させてくださいと、ね、安産のおかげを頂きゃ、それこそ、栓の灯篭を差し上げますというて拝みよるから、その、お産に苦しんでおるようなのが、あんたそんなことをいっておる、あんたうまれてからそげんなんこつはしきるですかちいいよったっち、そしたら、今神様をだまくらかしよったけん早う言えっちいうて、その、ね、けれども本当に一つの笑い話ですけれどもです、同じような内容がある間はですね、本当の一心はたっとらんのだから、そうじゃ、こげん思いよるとにおかげを頂かんちゃろう、まだ、心の中にそういうものがあるからです、やり抜き、本当にやりぬききらんからですよ、ね、一心と定めきらん。 ですから、私共がこれだけ一心とおすがりをしよるとにと、いう、その一心ですぐにおかげになっていないとするならばです、その一心が本当なものじゃないと先ず悟ってです、その自分の一心を私は検討してみなければいけんじゃないかとこう思います。ね。
だから、その正義さんの例をです、昨日、そのお知らせを頂いた忌中という字を頂いたとこういうから、忌中という字を字に書いてごらん、己の心と書いてある、忌という字は、中としては勿論、中である、問題は中身なん、己の心中心なんだ、自分の心次第なんだ、と言うて、昨夜、その事を私は話させて頂いた、ところが、ここのいきがです、日頃しっかりと信心の稽古をしとらんと、はぁー先生そうでしたと頂けないのだ、いや、そういう、例えば、噛んで含める御理解を頂いても、その方はしっかり日頃信心がでけておるから、御理解を頂いてから、はぁー心がすっきりしたというて帰られたが、ね、やっぱり忌中という字が心の中に引っかかって引っかかってたまらんと、そこんところに修行不足、信心不足を感ずる、ね。こげんなん思い、こげんなん思い方をしてはおかげを頂かん事は分かっておるけれども、どうしてもそう言うふうにしか思えない、ね、とにかく、合楽の方達の場合は、初心の方達ですから、もう、本当に、噛んで含めるようにいろいろ話をしなければなりません。
昨日、大和さんが言いなさいました、貴方達は本当、おかげを頂いちゃるですよ、あがしこここにはどんな何々会、何々会というのがあるばってん、親先生が出なさるとはもう貴方達だけの会だけですよちいうてから、それはもうそうでしょう、もう、私どんそれを楽しみに参ってくるとこういう訳なん、本当にもう、もう、とにかく、もう、片付けならもう、( ? ) 片付けさせてばってん、この人達は立ち上がろうとしない、たらんぐらいにその日頃参ってこんけん熱心に信心を、信心を頂こうとお話は聞こうとされるわけですけどね。
まあ、その方達にそんな話をさせて頂いた。私が、善導寺の教会から毎月御本部月参りをさせて頂いておる時に、親先生と私と、それから親奥様、もう七十にもなられる頃でしたでしょうか、三人で御本部参拝をさせて頂く。
そしたら、その、親奥様が履いておられた下駄がほんな、出られたらすぐ鼻緒が切れた、その時に、善導寺の親奥様が言われた事がです、イヤーおかげ頂いたちいうことでした、はぁーおかげを頂いた、これがもう途中でどん切れとるなら裸足にならにゃんところじゃったというてすぐひっくり返ってから、なら次に変わった下駄を履いて見えられました、ね、信心というのはね、そういう場合にはぁーおかげを頂いたと言えたり、思えたりする稽古を日頃しっかりしとかんと、ね、すべる、いや、おかげになると分かっとったっちゃ、あたー今日は演技が悪か、もう出かけに鼻緒が切れちから、しかもぷっつり切れたと、今日は何か悪い事がありゃせんじゃろうかと思うから、その思いが、あぁー!迷信と言う事からでした、昨日は迷信と言う事について話した夕べ、だから、ね、そういうようなことをですね、いわゆる、演技が悪いという風に迷信しておるから、それをし取るから本当にろくな事が起こってこない、ね、考えてみるとあん時鼻緒がぷっつり切れたつもそげんなん事もお知らせじゃったじゃろうと言うようなことになるのだと、けれども、例えばその、親奥様の生き方です、ね、はぁーおかげ頂いたという頂き方なら、もうそこにはおかげしかないのだと、ね、例えば、そういうことを日頃習っておりましても、ならぶっつけ本番になった時にです、はぁーおかげ頂いたと思えれる所まで信心を稽古とかにゃいかんと、それには、今日私が言う、ね、一心を立てての信心からしか生まれてこない、此の方のおかげを頂かなければ立ち行かん、此の方のおかげを、此の方のおかげを頂く、此の方の信心によらなければ人間の幸せはありえないのだと、その思い込みをですね、使わせて頂く、その一心からおかげが受けられる、さぁー、例えば、神様のお試しがあるというても、ね、いよいよ本番といったような時には、先ず、それは神様のお試しと思うて間違いないだろう、日頃信心の稽古をさせて頂いた時、ね、だから、こういうことで腹ども立てよることじゃでけん、それはよう分かっとる、ところが、うかつにしておる時には腹がたつような事はポカッときた時に、どっこい、ここで腹を立てちゃ馬鹿らしかと、日頃信心を落としてしまうというふうにしてそこを頂き、おかげとして受けていけれたら、それによって、いわば、試験に合格した事に成りましょうが、ね、それによってまた一段と力が頂けるのですけれども、日頃は腹を立てちゃいかん事は分かっとっても、いよいよ本番になるたんべんに腹を立て取る、これじゃいつまでたっても信心がどうどう回りということになる訳です、ね、それはやはり一心を、一心の立てぐあい、もう分かっちゃおるがなかなかできませんということになる、それは一心を立てておらんからです、ね。
そういう、例えば一心をです、私共が追求してまいりますと、自分の一心と言うというものがです、すぐにおかげになると仰っておるのに、すぐにおかげになっていないとするなら、自分の一心がまだ本当な一心じゃないのだと、分からせて頂いて、ね、一心の追求をしていかなければなりません、同時にそう言う一心の信心をしておりませんとです、まさかの時、いよいよの時にです、おかげを頂いたといえない、ね、何かに直面して、ね、自分の信心の、いうなら、もろさと言うか、ほんなもんじゃない事実をまあ知るぐらいなことでございます。ね。
一心が足りない、一心を立てていないところから、私はそんな結果になってくるんじゃないかとこう思うんですね。
一心を出すとすぐにおかげが受けられる。教祖様が嘘を仰っておる、ただいいかげんな事を仰っておるとは思いません、そこを信じます、ですから、一心をたて取るようであっても、それは、まだ本当の一心ではないという事実を突き止めてです、一段と深いと言うかね、意味に於いての一心を追求していく、ね。
一心、鏡のごたしと、一心助けのイレズミがしてある、まあ、一心鏡如しというそのイレズミがしてあるですがね、私共のその一心というものがです、不順なものであってはおかげにならん、それこそ、鏡の如しと言う一心であってこそ、すぐにおかげが受けられるという、すぐのおかげに繋がる、正義さんの例を取りましたが、ね、いよいよ、本当に難しかろうごたる時にです、一心を立てて、ね、神士の御用は出来ないでも、いわゆる、神様に仕える先生にはなれなくても、その真ん中の紳士の信心だけは、これはどのような事があっても、それこそ山が崩れるような事があっても続けますというものがでけておる、その一つの例を、私はこの事だけには失敗せんというように固く心に誓っておったその誓ったをです、神様が認めてくださったのに違いは無い、だから、すぐにおかげになってきた、もう、二十年近くになるけれども、これだけにはこの人が失敗しよらんじゃろうと、私も信じます、というほどしのです、いわば、紳士の信心がでけておる訳ですよね。
私共が、神様に例えば誓うというてもです、それこそ、神様をだまくらかしよるような誓い方、あーもします、こうもしますと言いながら、ね、たった半年か一年も経たないうちに破ってしまうような事ではです、まだその一心はほんなもんじゃないと一つ悟らせてもらってです、ね、一心、いわゆる、純粋なというかね、それこそ、鏡のような一心を追求しておかげを頂いてもらいたいと思うんですね。
どうぞ。
末永静行
2006年2月25日